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『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』はロシア史を知るのに最適な一冊

ロシアってだだっ広い。

人間が住んでいない土地の方が多いというバカでかい国、ロシア。

 

こんな大きな国を、どうやって統治してきたんだろう?

 

そんな疑問からロシアの歴史を知りたくなりました。

 

いまは電話もインターネットもある時代。

連絡手段は「人が移動すること」しかなかった時代から、こんな巨大な国土をどうやって守り、広げてきたのだろう?

 

そんな疑問にこたえるべく、私が手に取ったのは

『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』

でした。

 

 

本書は現代ロシアのルーツを1000年前にさかのぼり、体系的にロシアの歴史を読み進めて行けます。

厚めの本ですが、ここまで分かりやすくロシア史を解説する本はなかなかないと思います。

 

著者は一橋大学名誉教授でもあり、ロシア社会学博士でもある土肥恒之氏。

 

  • ロシアの宗教や産業と民衆のかかわりを知りたい
  • ロマノフ王朝の成り立ちから革命までの流れが知りたい
  • 対ヨーロッパ、対オスマン、対モンゴル(アジア)の政策を知りたい
  • シベリア鉄道の開通について知りたい
  • ソ連が興る経緯を知りたい

 

ピョートル大帝って有名だけど、ぶっちゃけなにした人なの?

ニコライ二世ってなんで暗殺されちゃったの?

ソ連ってなんで始まったの?

 

「うっすら聞いたことあるけど、そういえばなんで?」

そんなあなたの「知りたい」に答えてくれるのが本書です!

 

目次

ロシア人のルーツ

ロシア人のルーツとしては

もともとは東スラブ人

が「オリジナル」です。

 

9世紀にスカンジナビアにいたノルマン人ヴァイキングが東方のルートで南下することで、ロシア西部から現ウクライナのキエフまで侵攻されました。

 

このときのノルマン人と、数で勝るスラブ人が

同化

していき、現在のロシア人の血が始まったのです。

 

ヤナ
ウクライナ首都キエフが当時は都市国家として大きな力を持っていました

 

政情が不安定なこともありますが、キエフにはぜひ行ってみたいですね…。

 

このノルマン人の南下により、

ノルマン人由来のリューリク朝

が始まります。

 

16世紀にリューリク朝が途絶えたあとが大変。

大国スウェーデンやポーランドが弱体化したロシアをどんどん制圧し、加えて南部からはクリミアやタタールから虎視眈々と狙われるハメに。

 

ヤナ
このとき本気でロシアは滅亡の危機に陥ります

 

「前王朝とゆかりのあるロシアの名門貴族、ロマノフ家を皇帝にしよう!」

と全国会議で決まったのに、

しゃしゃり出てきたボリス・ゴドノフ

がロマノフ一家に陰謀を仕掛けたり、

当のミハイル・ロマノフ君(当時16歳)が

「いやです、皇帝とかマジ勘弁」

と逃げても、

「神の御心だし、引き受けなかったら天罰食らうよ!」

と脅されて口説かれてしまったり。

 

かくしてロマノフ王朝が始まるというわけです。

 

ヤナ
そのロマノフ一家も300年後に一家惨殺の憂き目の合うのが皮肉

 

ロマノフ王朝歴代皇帝をざっくり追ってみる

さて、それではロマノフ王朝300年の著名な歴代皇帝たちをざっくりと追ってみましょう。

 

ミハイル・ロマノフ(初代皇帝)

「皇帝なんて無理ゲー」

とお母さんと修道院に逃げ込むも、使わされた使節団長から「そないなこと言うたら神の怒り買うで」と脅され、しぶしぶ初代皇帝に納まったかわいそうな少年。

 

征服欲の強いウザめの父親がやらかした戦後処理に明け暮れることになったが、タタールから身を守るため全長800kmもの防壁を築き上げ、国土の回復に成功した。

 

アレクセイ

ミハイルの息子。

アレクセイの教育係ボリス・モロゾフが税率引き上げで国民を絞めつけ過ぎたため、即位直後から民衆からの一揆を受けることに。

 

成長したアレクセイは側近とともになかなかのワンマン統治をする。

当時ばらつきのあったロシア正教を統一しようとして、

「ササッとまとめちゃってください。よろしく」

と総主教ニコンを任命。

 

ニコンは大勢の反対を押し切って「じゃ、本家のギリシャ正教でいきますね」とこれまでのロシア正教のやり方から方向転換。

案の定、

「じょーだんやないでぇ!なんで今までのやり方変えなあかん」

と、ロシア各地で反対運動が勃発。

 

最終的に、皇帝アレクセイと総主教ニコンがケンカをし、追放したり破門したりののしり合ったり、お互いに足の引っ張り合いをするという結果となる。

 

ピョートル(大帝)

アレクセイの後妻の息子。

ピョートルが即位する前にもアレクセイの前妻の息子フョードル三世が即位しているが、病弱だったため短い治世で終わっている。

 

フョードル三世の死後、フョードルの姉ソフィヤとのすったもんだがあり、なんやかんやでピョートルが皇帝の座に就くことに。

 

ピョートルは古いロシア嫌いで有名。

皇帝の身分を隠してヨーロッパへの使節団に潜り込み、数カ月に渡りオランダ・アムステルダムやイギリス・ロンドンをめぐって知見を広めた。

 

その結果、

「ロシア、古すぎでしょ…。もっと西欧化しないとヤバい!」

となり、首都のモスクワを捨て、よりヨーロッパに近いサンクトペテルブルグの町を作ってしまう。

 

ピョートルはネヴァ川の河口のデルタの沼沢地に要塞を築き、それを基盤として新しい街の建設に入った。

寒冷で湿地、そして不健康な気候の上に、毎年のような洪水の被害という不利な諸条件が揃っていたが、当時のロシアにあってヨーロッパと最も近い場所であった。

 

ちなみにサンクトペテルブルグの名前の由来は守護聖人「聖ペトロ」から。

ピョートルの名前もペトロからきています。

町のモデルはアムステルダムだそう。

 

ピョートルは気づいてしまった。

「モスクワは古いロシアの象徴じゃん。キライ!」

それでペテルブルグを作ったわけだけど、

現在のモスクワ・モスクワ川には

モスクワ川のピョートル像 矢印の塔の真ん中らへん

巨大なピョートル像が乗っかったモニュメントがででんと鎮座ましましている。

 

ピョートル的には

「なんでやねん!!」

という感じでしょう。

 

ピョートル大帝の死後、乱立する「凡庸な皇帝たち」

ピョートル大帝の死後から1762年6月のエカテリーナ二世の即位までの37年間、6人の男女がロシアの帝位に据えられた。

だが彼らはいずれも凡庸な人びとで、これら「北方の巨人の遺産のとるに足らない相続人たち」(プーシキン)の時代には見るべきものがいないというのが通説であった。

これはソヴィエト史学の見直しが進められている今でもおおむね妥当なところである。

 

ピョートル大帝の死後、

ピョートル大帝の奥さん(皇后)だったり、

ピョートル大帝の孫だったり、

ピョートル大帝の姪だったり、

ピョートル大帝の娘だったり、

巻き込まれ系の皇帝が乱立。

 

ほとんどが本人の意志と言うより、相続による利害関係を重んじる周囲の人間によって担ぎ出された皇帝だった。

とうぜん、長続きしない。

 

ピョートル三世

ピョートル大帝の娘、女帝エリザヴェータの甥。

ピョートル大帝の孫にあたる。

スウェーデンの王位継承権も持っていたが、我先にとロシアに引っ張ってこれた巻き込まれ系皇太子。

 

軍事趣味があり、根っからのドイツびいき。

プロイセンのフリードリヒ大王が大好きで、勝手に対プロイセン戦争をプロイセンに有利な状況で終わらせてしまう。

 

ロシア社会、マジギレ

そりゃそうです、戦争に勝つために多大なる物資や人材を費やしてきたわけだから。

 

帝室内でクーデターがあり、皇帝の座から引きずり降ろされたピョートル三世は逮捕され、一週間後に殺害されてしまうのだった。

 

ヤナ
奥さんのエカテリーナ二世(のちの女帝)の指示があったとかなかったとか

 

エカテリーナ二世

クーデターで殺されたピョートル三世の妻で、ロマノフ家と遠い親戚にあたる生粋のドイツ人。

 

つまり、

有名な女帝エカテリーナ二世はドイツ人

なのです。

 

ヨーロッパは王室が国をまたいで親戚関係を結んでいるので、まったくありえない話じゃないと思いますが、それにしてもちょっとびっくりしませんか?

 

ドイツ語しかしゃべれなかったのに、嫁いでから一生懸命ロシア語を勉強して、一族になじむようがんばる姿が周囲からの好印象を買った。

その結果、使えない反ロシア的ピョートル三世より皇帝に向いていると判断され、派閥を広げていったというわけです。

 

エカテリーナ二世

ロシアとは無縁のドイツ人 エカテリーナ2世

 

エカテリーナ二世の治世では、

プガチョフというコサックおじさんの大反乱に遭ったり、

反乱鎮火のあと地方の行政改革を進めたり、

ポーランドをぶん取って解体させたり、

クリミア半島を併合して長年の宿敵オスマン帝国を弱体化させたり、

34年間にわたり、多大なる「功績」をロシアにもたらした。

 

ヤナ
イケメン好きだったエカテリーナ二世ですが、終生の伴侶は「イケメンじゃないけど尽くしてくれるポチョムキン侯爵」です

 

パーヴェル

エカテリーナ二世とピョートル三世の息子。

母子関係は最悪で、エカテリーナ二世はパーヴェルにほとんど愛情を注がなかった。

 

理由としては

「自分の帝位の正当性を奪われる可能性があったから」

だそう。

 

非ロシア人のエカテリーナは

皇帝の位を奪った

自覚があり、

パーヴェルの存在はエカテリーナの帝位継承の不当を証明する可能性があった。

 

母親に愛されない子供が母親を愛するわけがない。

 

やはりパーヴェルは超母親嫌い。

エカテリーナ二世の死後に帝位を継承したけれど、

母親への恨みを「女帝への恨み」に変換し、

「帝位継承は男系男子による」

と法律ごと変えてしまった。

 

ヤナ
母エカテリーナ二世への憎悪の深さがうかがい知れます。

 

そんなパーヴェル、もう結構いいトシだったのに、父親似の未熟さが仇となり廷臣に暗殺されてしまいました。

 

アレクサンドル一世

パーヴェルの息子、エカテリーナ二世の孫。

パーヴェルと違い、エカテリーナ二世の手元で溺愛されて育った。

 

パーヴェルと似てないイケメンで、民衆からの好感度も上々。

 

アレクサンドル一世の最大の功績と言えば

対ナポレオン戦争に勝利したこと

だろう。

 

当時負け知らずのナポレオンは、ロシアとの闘いに負けたことでその没落が始まるのだ。

アレクサンドル一世はナポレオンに勝った勢いで、戦後のヨーロッパを先導するリーダーシップを発揮する。

 

ピョートルの時代には西欧諸国に一歩出遅れていたロシアが、このときから西欧と肩を並べて、さらには導く立場にまで成長したのである。

 

晩年は政治への関心が薄れてきて、わずか48歳のとき熱病で死去。

それまで健康体だったのでいろいろな陰謀説もあるという。

 

ニコライ一世

アレクサンドル一世の2番目の弟。

アレクサンドル一世の死後、とうぜん帝位は1番目の弟(ニコライ一世の兄)にわたると思い、のんびりおだやかに過ごしていた。

 

ところがどっこい、

「次の皇帝は…ニコライだ」

という遺言が残っていたばっかりに、とつぜん白羽の矢が立ってしまった。

 

降ってわいた話に「帝位を継ぐ、継がない」で悶着があり、ようやく帝位継承を受け入れた。

 

このころから民衆の武装蜂起がちょこちょこ勃発するようになり、武力で鎮圧したニコライ一世は「暴君」などと呼ばれてしまう。

 

「だって検閲とか強化しないと、フランスやドイツみたいに革命起きちゃうじゃん!!」

と言うのが実際のところだが、ニコライ一世による弾圧は民衆の不満をあおるものでしかなかった。

 

いっぽう、ニコライ一世はロシア最初の鉄道事業に賛同し、鉄道がもたらす有益性を説いている。

 

アレクサンドル二世

ニコライ一世の息子。

 

アレクサンドル二世の最大の功績は

農奴解放

である。

 

領主の所有物であった農奴を「人格的に解放」することに成功。

 

ヤナ
とはいえ、経済的にはこれまでどおり土地に束縛されてしまうのが現実でした

 

アレクサンドル二世はとにかく、

暗殺未遂されまくり

の皇帝で、

軽傷で済んだり、

たまたま運よく助かったりしてきたが、

ついに凶弾に斃れることになります。

 

馬車での移動中に襲撃。

そのまま逃げ去ればよかったものを、ケガをしたコサック兵を気遣い馬車から降りてしまい、そこを狙われて爆死

 

ヤナ
なんで逃げなかったんよ…

 

アレクサンドル二世が爆殺された現場には、

 

血の上の救世主教会

血の上の救世主教会 撮影時修復作業中

「血の上の救世主教会」

が建築されました。

 

アレクサンドル三世

アレクサンドル二世の息子。

 

テロ対策をすればするほど狙われる皇帝で、ある暗殺未遂では後のソ連の指導者レーニンの実兄が暗殺未遂犯として公開処刑されている。

 

親子そろって暗殺未遂と戦いながらも、人頭税の廃止や児童労働の禁止など、安定したロシア経済への政策に貢献。

 

ニコライ二世(ツイてない皇帝)

ロマノフ王朝最後の皇帝。

いろいろツイてなかったひと。

  • 皇太子時代には日本で斬りつけられるし(大津事件)、
  • 戴冠式の祝賀行事で詰めかけた農民がドミノ倒しで千人以上死亡するし、
  • その晩パーティーで盛り上がってしまい評判が爆下がりだし、
  • 息子が血友病を発症するし、
  • 日露戦争に負けるし、
  • 貧困にあえぐ民衆のデモを取り合おうとせず悲惨なことになるし(血の日曜日事件)、
  • ラスプーチンに支配されるし、
  • その結果、皇帝夫婦は一族からものけものにされるしで、

 

専制君主に固執するあまり革命を防げなかった皇帝なのです。

 

ニコライ二世「民衆がそんなに言うなら私辞めるよ。でも弟のミハイル大公に帝位を受け継ぐよ」

 

ミハイル大公「いやいや、民衆に殺されるよ私!!帝位いらない!

 

こうして300年にわたるロマノフ王朝がその幕を下ろしたのです。

 

ソ連時代に突入

帝政末期から革命家たちの名前が出始め、

ストルイピン、レーニン、トロツキー、スターリン

など、ソ連誕生前後に中核をなす人物がロシア史上に台頭してきます。

 

共産主義国家の礎となったマルクス主義のひとつに

「宗教はアヘンである」

という原則があり、レーニンもスターリンも「無神論者」だったことがロシア正教へ災いをもたらしました。

 

教会や修道院はドッカンドッカン壊され、聖画(イコン)は溶かされ、薪代わりにされ、信仰心を持つことさえ禁じられたのです。

 

ヤナ
この破壊行為によって貴重な遺物がどれほど消失したことだろう

 

ロシアの歴史を振り返ってみても、人々とキリスト教のつながりはとても強いものだとわかります。

 

ソ連政府による破壊的行為の象徴となるのが、対ナポレオン戦勝記念として19世紀に建てられた

救世主キリスト聖堂の爆破
です。

 

「ソヴィエト宮殿」なるイタいものの建築に取り掛かるため、この大聖堂が邪魔だった。
だから破壊した。
ヤナ
ソヴィエト宮殿は作られませんでしたけどね。ぶっ壊すだけぶっ壊しといて

 

それから70年余りが建った2000年に、救世主キリスト教会は再建されました。

 

2000年に再建された

 

遠目から見てもわかるくらい、とても美しくて内部も荘厳です。

 

 

ところで、なんともいえない気持ちになる史実として、

スターリンがふかふかのベッドの上で永眠した

というのがあります。

 

死因は脳梗塞、享年74歳。

 

74歳って今日のロシア男性の平均寿命ですよ?

大粛清で数十万人~数千万人もの人々を処刑しまくってきたスターリン、

 

ベッドでお亡くなりになりました。

 

歴史は勝者によっていくらでも書き替えられますが、スターリンの安らかな死は現実。

なんとも言えない感情がわき起こります。

 

スターリンは死後、レーニンと並べられてレーニン廟に祀られました。

しかしフルシチョフのスターリン批判により、

1961年、スターリンの遺体は廟から出され、焼却された。廟の裏にある革命功労者たちの墓に「格下げ」されたのである。

 

スターリン死去から取り巻きたちの没落を描いたブラックな映画、『スターリンの葬送狂騒曲』はなかなか見ごたえがあります。

 

 

長く続いた宗教弾圧もゴルバチョフ大統領の時代、1988年、ついに政教和解となりました。

 

対外的には評価のされたゴルバチョフですが、国内では不人気でした。

政治闘争に敗れ、大統領を辞任。

 

1991年末、ソヴィエトは崩壊するのです。

 

ソ連時代を深く知るのにオススメな本

ソ連って暗くて怖い、貧しくて苦しいイメージばかりが先行しますが、決してネガティブなだけじゃない奥の深い実情があります。

 

アンドレ・ジッドの『ソヴィエト旅行記』は、1930年代に実際にソ連を旅行したフランス人作家が現地のリアルを詳細に書き記した読み物。

誰に忖度することもなく、

  • ソ連の良いところ
  • ソ連の悪いところ
  • ソ連の意外なところ

などをありのままに書いてあるのでとても興味深いです。

 

ソ連オタクの漫画家速水螺旋人さんと津久田重吾さんが綿密に書く、オタクだけじゃない一般知識としても知っておきたいソ連本。

イラストも写真も豊富で、もうみっちり書いてあります。

読み応えたっぷり。

 

スターリン時代のとある収容所の囚人、イワン・デニーソヴィチの何気ない一日を追った本。

ノーベル文学賞を受賞しているだけあって圧倒的な細部の情報や人間の感性の表現、スターリン批判などを通して、囚人たちの一日を追体験することができます。

▶関連記事:【書評】『イワン・デニーソヴィチの一日』でソ連強制収容所を追体験する

 

読んだ感想

本書は全400ページもある厚めの本ですが、ロシア史の流れが大変わかりやすく書かれています。

ときどき難しい専門用語がちらつきますが、文章自体は難しいものではなく、著者の語り方のおかげでとてもリアリティのある歴史絵巻物になっています。

ロマノフ一家の家系図や戦略図、版図拡大の経緯、民衆の挿絵もけっこうあります。

 

ヤナ
いくつかの絵画はロシアの美術館で実際に観たことがありました。

 

ロマノフに至る前からロマノフ後の世界(ソ連時代)まで一連の流れが一冊でつかめるので、歴史がいかに連続しているものかよくわかります。

 

ロシア1000年の歴史を追いかけてきて、19世紀、20世紀と現代につながってくる頃にはちょっと感動も覚えました。

 

ロシア革命は起こるべくして起きました。

時代の流れを読めなかったニコライ二世はたまたま「そのとき」の皇帝だっただけ。

 

もし、パーヴェル帝が「帝位継承を男系男子のみ」に変えなければ?

いや、エカテリーナ二世が息子のパーヴェルに愛情を注いでいたら?

いやいや、ピョートル大帝の死後、有能な後継者がすぐに現れていたら?

 

もしも、

もしも、

の分岐点がたくさんあった結果が今のロシアにつながっているんですね。

 

どんなに貧しくても、どんなに苛酷な環境でも、どんなに人口が激減しても。

虐げられても、信仰を取り上げられても、死の恐怖とたたかいながら生き抜いてきたロシアの人々を尊敬します。

 

 

19世紀モスクワ貧民街のリアルを書いた『モスクワとモスクワっ子 ロシア帝政末期の光と影』、すごく面白いです。

 

\kindleでしか読めません/

『モスクワとモスクワっ子 ロシア帝政末期の光と影』 ギリャロフスキー作

 

同じ作者ギリャロフスキーによる、帝政末期のロシアのルポルタージュもおすすめ。

 

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